ヒューマンストーリーStory
幼少時代 前向きに生きていく大切さを教えてくれた家族
青春時代 創作活動に没頭した青春時代
転機 働く目的を見い出した人生の師匠との出会い
社労士時代 社会保険労務士として全力疾走の6年間
新たな挑戦 東大阪市政策委員としての決意
そして未来へ 安心して子どもを産みやすい育てやすい東大阪に
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幼少時代
幼少時代 前向きに生きていく大切さを教えてくれた家族
声が大きくいつも明るい父。
家事も仕事も全力の優しい母。
マイペースな姉。
私は、そんなどこにでもある東大阪の家庭に生まれ育ちました。
家族の特徴は、生まれつき中度の知的の障がいと精神の障がいをもった姉がいることです。
家事も仕事も全力の優しい母。
マイペースな姉。
私は、そんなどこにでもある東大阪の家庭に生まれ育ちました。
家族の特徴は、生まれつき中度の知的の障がいと精神の障がいをもった姉がいることです。
姉は思春期以降、感情や行動の自制ができずに、家庭内での暴言・暴力・自傷行為等も目立つようになりました。
また、姉の叫び声や部屋で暴れる大きな音で、深夜に目覚めることも少なくありませんでした。
どうしてうちの家族だけ違うのだろう――
障がいのある姉と家族の在り方について、子どもながらに悩まない日はありませんでしたが、何があっても「大丈夫」、「負けたらあかん!」と、前向きに明るく振舞う両親の姿がいつもそこにありました。
幼心に強い心を持つことの大切さを学びました。
また、姉の叫び声や部屋で暴れる大きな音で、深夜に目覚めることも少なくありませんでした。
どうしてうちの家族だけ違うのだろう――
障がいのある姉と家族の在り方について、子どもながらに悩まない日はありませんでしたが、何があっても「大丈夫」、「負けたらあかん!」と、前向きに明るく振舞う両親の姿がいつもそこにありました。
幼心に強い心を持つことの大切さを学びました。
「やってみたいなら挑戦したらいいやんか」
何かを選択するとき、両親はいつもそう言って背中を押してくれました。
どんなに馬鹿なことをしたり失敗したときも、何も言わずに支えてくれました。
何があっても信じ続けてくれたことに感謝の気持ちしかありません。
何かを選択するとき、両親はいつもそう言って背中を押してくれました。
どんなに馬鹿なことをしたり失敗したときも、何も言わずに支えてくれました。
何があっても信じ続けてくれたことに感謝の気持ちしかありません。
「幼少時代」の章終了
「青春時代――創作活動に没頭した青春時代」へ続く
青春時代
青春時代 創作活動に没頭した青春時代
私は漫画やアニメ、映画が大好きで、創作活動に没頭していた時期があります。
小学生時代、Jリーグが開幕して空前のサッカーブーム。
小・中学校では、サッカー部、陸上部を経験し、高校時代はサッカー部でキャプテンも務めました。
サッカーが好きだった私には「サッカー漫画を描く」という趣味がありました。
小学生時代、Jリーグが開幕して空前のサッカーブーム。
小・中学校では、サッカー部、陸上部を経験し、高校時代はサッカー部でキャプテンも務めました。
サッカーが好きだった私には「サッカー漫画を描く」という趣味がありました。
ある日、こっそりノートに描いた漫画を同級生に読んでもらいました。
「続きが読みたいわ」
この何気ない一言から、漫画家のような表現ができる職業に憧れを抱くようになりました。
「続きが読みたいわ」
この何気ない一言から、漫画家のような表現ができる職業に憧れを抱くようになりました。
高校卒業後、創作活動に挑戦しようと専門学校への進学を決断。
映像制作ゼミに所属し、漫画や映像の創作活動、また時々遊びに没頭する毎日を過ごしました。
出版社に作品の持ち込みを繰り返し、在学中に週刊少年マンガ誌で担当編集者が付きました。
しかし、その後はネーム(絵コンテのようなもの)をどれだけ描いても直しと没の繰り返し。
映像制作ゼミに所属し、漫画や映像の創作活動、また時々遊びに没頭する毎日を過ごしました。
出版社に作品の持ち込みを繰り返し、在学中に週刊少年マンガ誌で担当編集者が付きました。
しかし、その後はネーム(絵コンテのようなもの)をどれだけ描いても直しと没の繰り返し。
「25歳までに成果を出せなければやめる」と区切りを決め、
これで最後にすると描いた漫画を出版社に持ち込みましたが、結果はあえなくその場で選外。
「1日でも早く別の道で頑張ってください」
今思えば担当編集者の方からの本当の優しさだったのだと思います。
あっけなく夢は破れ、創作活動を生業にすることが出来なかったという現実。悲しい、辛いという気持ちよりも、これまで胸につっかえていた何かが取れたような気持ちでした。むしろ清々しさを覚えながら創作活動に区切りがつけることが出来ました。
これで最後にすると描いた漫画を出版社に持ち込みましたが、結果はあえなくその場で選外。
「1日でも早く別の道で頑張ってください」
今思えば担当編集者の方からの本当の優しさだったのだと思います。
あっけなく夢は破れ、創作活動を生業にすることが出来なかったという現実。悲しい、辛いという気持ちよりも、これまで胸につっかえていた何かが取れたような気持ちでした。むしろ清々しさを覚えながら創作活動に区切りがつけることが出来ました。
「青春時代」の章終了
「転機――働く目的を見い出した人生の師匠との出会い」へ続く
転機
転機 働く目的を見い出した人生の師匠との出会い
創作活動に区切りをつけて、働き始めたものの新しい人生の具体的な目標を見い出すことが出来ずに、悶々とした日々を送っていました。
周りの友人が社会の中で少しずつ責任のある立場になっていく中、自分だけが取り残されているような焦りを覚え、空回りをしている感覚が続く毎日で、仕事も長く続きませんでした。
周りの友人が社会の中で少しずつ責任のある立場になっていく中、自分だけが取り残されているような焦りを覚え、空回りをしている感覚が続く毎日で、仕事も長く続きませんでした。
そのような時、信念をもった生き方に強く共感を覚えた人生の師との出会いがありました。
これまで「自分のやりたいことだけやっていればいい」と考えていた私の人生観は一変。
初めて真剣にこれからの人生の在り方について見つめ直すことにしました。
これまで「自分のやりたいことだけやっていればいい」と考えていた私の人生観は一変。
初めて真剣にこれからの人生の在り方について見つめ直すことにしました。
そんな折、長期療養をして復職した同僚から
「健康保険から支給される傷病手当金で生活を維持することが出来た」
という話を聞き、社会保険の制度に初めて関心を持ちました。
「健康保険から支給される傷病手当金で生活を維持することが出来た」
という話を聞き、社会保険の制度に初めて関心を持ちました。
また、残業代未払い等のトラブルも経験。
同時期に友人がフルタイムで勤務しているのに社会保険に加入できないといった労働トラブルの当事者になったこともあり、社会保険や労働法について調べる機会が多くなりました。
そして「社会保険労務士」という職業を知り、強い関心を抱いたのもこの時です。
同時期に友人がフルタイムで勤務しているのに社会保険に加入できないといった労働トラブルの当事者になったこともあり、社会保険や労働法について調べる機会が多くなりました。
そして「社会保険労務士」という職業を知り、強い関心を抱いたのもこの時です。
社会保険労務士の資格について調べていく中で、労務、社会保険、年金といった分野を専門とする国家資格だということを知り、
「これだ――」と私は直感しました。
生まれつき中度の知的障がい等をもっている姉が20歳以降、障害年金を受給していたこともあり、年金制度は本人だけではなく、家族にとっても家計を支える大切な「社会保障制度」だと実感をしていました。
「これだ――」と私は直感しました。
生まれつき中度の知的障がい等をもっている姉が20歳以降、障害年金を受給していたこともあり、年金制度は本人だけではなく、家族にとっても家計を支える大切な「社会保障制度」だと実感をしていました。
だからこそ、社会保険労務士として「今度は自分が働く人や障がいのある人、またそのご家族を支えていきたい」と強く思えたのです。
社会保険労務士試験の合格率は6~7%の難関試験。
勉強をする習慣がなかった私にとってはとても高いハードルでした。
ですがハードルが高ければ高いほど、挑戦しがいがあるというものです。
決めたらまず行動の私は「よしやってみよう!」と決断。
こうして、「社会保険労務士」として生きていくという新しい目標を紡ぎ出すことが出来ました。
社会保険労務士試験の合格率は6~7%の難関試験。
勉強をする習慣がなかった私にとってはとても高いハードルでした。
ですがハードルが高ければ高いほど、挑戦しがいがあるというものです。
決めたらまず行動の私は「よしやってみよう!」と決断。
こうして、「社会保険労務士」として生きていくという新しい目標を紡ぎ出すことが出来ました。
「転機」の章終了
「社労士時代――社会保険労務士として全力疾走の6年間」へ続く
社労士時代
社労士時代 社会保険労務士として全力疾走の6年間
仕事をしながら試験勉強に取り組み、3度目の受験で合格。
合格後は社会保険労務士として、企業の労務管理や給与計算、相談支援などの実務を経た後、開業へと至りました。
合格後は社会保険労務士として、企業の労務管理や給与計算、相談支援などの実務を経た後、開業へと至りました。
業界では労務管理を中心に事業拡大を図ることが通例ですが、私は社会保険労務士を志した原点でもある障がいのある方の支援を中心に、個人の権利を守ることに取り組みました。
障害年金に関わる相談があるたび、自分の家族の境遇と重なり、私自身の姿が相談者と重なって見えることも少なくありませんでした。
受給資格の確認、申請書の作成、診断書の手配等、一つひとつの相談と真摯に向き合っていきました。
またコロナ禍では、雇用を守りたいとご相談を頂いた企業の助成金対応や個人の休業支援金・給付金等の申請にも対応しました。
集客と合わせて社会保険制度の積極的な周知をするために、YouTubeで動画投稿も開始しました。
創作活動に没頭してきた学生時代の経験を活かすこともでき、有り難いことに13000人を超える方にチャンネル登録をして活用いただいております。
創作活動に没頭してきた学生時代の経験を活かすこともでき、有り難いことに13000人を超える方にチャンネル登録をして活用いただいております。
またSNSを通じて、北は北海道から南は沖縄まで、全国から相談が寄せられるようになり、動画の取り組みについて経済誌でも掲載をして頂くことが出来ました。
そうした活動を通して、「障がい年金を扱える年金に強い社労士」として評価を頂き、一つの個性を確立することができました。
そうした活動を通して、「障がい年金を扱える年金に強い社労士」として評価を頂き、一つの個性を確立することができました。
「社労士時代」の章終了
「新たな挑戦――東大阪市政策委員としての決意」へ続く
新たな挑戦
新たな挑戦 東大阪市政策委員としての決意
まだまだ、行政や制度の援助を必要とされている方々は多く存在する――
全国から寄せられる相談と向き合う中で、強く実感してきたのはそのような想いでした。
これまでは仕事として対応してきました。しかし一方で、身近な地域に根ざして、行政との間に入って橋渡しをしてくれる人、心を持って寄り添える窓口のような存在が必要だという想いも強くなっていきました。
また現場で当事者やご家族の声を聴くうちに、行政の立場から「声なき声」「小さな声」を拾い、制度の点検・改善へと反映していかなければならないこともあるのではないかと考えるようになりました。
全国から寄せられる相談と向き合う中で、強く実感してきたのはそのような想いでした。
これまでは仕事として対応してきました。しかし一方で、身近な地域に根ざして、行政との間に入って橋渡しをしてくれる人、心を持って寄り添える窓口のような存在が必要だという想いも強くなっていきました。
また現場で当事者やご家族の声を聴くうちに、行政の立場から「声なき声」「小さな声」を拾い、制度の点検・改善へと反映していかなければならないこともあるのではないかと考えるようになりました。
そして――
この度、公明党東大阪市政策委員として公認を頂きました。
「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」
公明党東大阪市政策委員として、生涯、誓いの人生を生き抜いていこうと覚悟を決めた次第です。
この度、公明党東大阪市政策委員として公認を頂きました。
「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」
公明党東大阪市政策委員として、生涯、誓いの人生を生き抜いていこうと覚悟を決めた次第です。
「新たな挑戦」の章終了
「そして未来へ――安心して子どもを産みやすい育てやすい東大阪に
そして未来へ
そして未来へ 安心して子どもを産みやすい育てやすい東大阪に
私は現在、妻と共に不妊治療に取り組んでいます。
これまで二度の流産を経験しました。
約5年間にわたって、高額な不妊治療を続けることを選択できたのは、家族の支えと、国の助成金のおかげでした。
人生を通じて社会保険制度や助成金といった、社会のセーフティネットがどれほど大切なものか、身をもって私は実感してきました。
労務・社会保険・年金のプロである社会保険労務士として、妊娠・出産・子育てに関わる支援をはじめ、身近な社会保険制度等の積極的な周知に取り組み、行政と制度の間で悩む人のお役に立てるよう、全力で走り抜く決意です。
これまで二度の流産を経験しました。
約5年間にわたって、高額な不妊治療を続けることを選択できたのは、家族の支えと、国の助成金のおかげでした。
人生を通じて社会保険制度や助成金といった、社会のセーフティネットがどれほど大切なものか、身をもって私は実感してきました。
労務・社会保険・年金のプロである社会保険労務士として、妊娠・出産・子育てに関わる支援をはじめ、身近な社会保険制度等の積極的な周知に取り組み、行政と制度の間で悩む人のお役に立てるよう、全力で走り抜く決意です。
ヒューマンストーリー 完